2011年12月10日土曜日

もうおわり



ゴミ箱で前回り

朝6時に起床。
シャワーを浴び、軽めの朝食を食べ、歯を磨くと、
部屋の中のいらないものを全部ゴミ袋に入れ、外のゴミ箱に投棄。
シーツや布団、こちらで買った部屋着、
こちらの日本人にもらったけど使い道のなかったスタンドなど、
あらゆるいらないものを詰め込むとゴミ袋3つ分になりました。
こんなに大量にものを捨てるのを、なぜか人に見られるのが恥ずかしくて、
まだ誰も起きてこないうちにこっそり捨てました。
(日本人は物を粗末にすると思われたくなかったのかもしれないです)
受け入れ先の先生が車で迎えるに来るころ、ポケットに部屋の鍵がないことに気づきました。
ゴミ箱の中に一緒に捨ててしまったのだと考え、先生を待たせてゴミ箱に直行。
巨大なゴミ箱に腰を引っかけたまま、上半身を中に突っ込ませてゴミ袋に手を伸ばしていると、
両足が浮いてぶらぶらして、鉄棒の前回りみたいにそのままゴミ箱に落っこちそうで、
ゴミ箱の外から先生の笑い声が聞こえました。
重たいゴミ袋を引きずり出して、捨てた部屋着のズボンのポケットを探し、なんとか発見。

この鍵には最後の最後まで振り回されています。
最初に寮に来たときは、部屋の前でポケットを探しても鍵が見つからず、
財布の中を探したり、研究室に戻って探したりして、へとへとになって部屋に戻ったとき、
なんとなくズボンのポケットに手を入れると、二重になっていたポケットの中に鍵があって、
ようやく中に入ることができました。
他にも、トイレに行って部屋に戻ってきたら、
ドアが勝手にロックされていたということもありました。
どうやらこのドアは、開けてから鍵をロックの状態にしてそのまま閉めると、
オートロック機能が働くようです。
このときはOARDC構内の警察に電話をして、マスターキーで開けてもらいました。
全部自分のせいではあるけれど、日本にいたころ鍵関連のトラブルなんて
ほとんど無かったのだから、この鍵との相性が悪かったとしか考えられないです。
部屋の机の上に鍵を置いて、オートロック機能オンにしてドアを閉めて、
ようやくこの鍵から解放されることができました。

そして先生の車に乗せられてコロンバスへ。
受け入れ先の先生はコロンバスとウースターの間を頻繁に行き来していて、
今日は午前中にコロンバスで会議があるとのことで乗せていってもらいました。
飛行機は翌日(土曜)の分を予約してあるので、この日はホテルで一泊です。
受け入れ先の先生の都合が合わなくなったら、日本人の知り合いに頼むしかなく、
その場合土曜でないとおそらく忙しくて乗せていってもらえないので、
ホテル代が余計にかかるけど念のため翌日の便にしておきました。
とにかく空港までの交通手段が皆無なので、念には念を入れたわけですけれど、
こんな細かいことまで書くということは、ホテル代がまだ惜しいみたいです。

先生の会議が終わるまで、コロンバスのキャンパスをうろうろしていました。









いまはホテル(というかモーテル)でブログを書いてます。
この短いオハイオ留学は、信じられないほど順調に進み、順調に終わりかけています。

調査に関していえば、ガイドさんの力を借りることができたのが大きかったです。
たまたま別のプロジェクトで招聘されていて、ガイドさん自身の興味とも重なっていたため、
アーミッシュ調査に同行していただくことができました。
そもそもオハイオ州立大学から研究場所を提供してもらえるという今回の話も、
3月11日の地震で研究環境に被害を受けた研究者を支援するというのが趣旨で、
そうでなければここまで積極的な支援を受けられたかどうかはわかりません。
もちろんアンケートは自分で作ったし、集めたデータをまとめていくのも自分だけれど、
ガイドさんの交渉力がなければ調査は不可能でした。
それから、ガイドさんに限らず、人に「アーミッシュを研究している」というと、
たいていの人は興味を持ってくれて、知り合いのアーミッシュを紹介しようという人も
少なからずいました。
選んだテーマ自体も、人の興味を引きやすく、協力を得やすいものだったようです。

生活については、寮で暮らすことができたのは本当に幸運なことでした。
寮にいるのはほとんどが留学生で、それぞれが多かれ少なかれ英語に苦労していて、
車を持っている人が少なく、自然と互いに助け合う機会が多かったように思います。
寮の中の様子を見ると、車を持っている人ほど単独行動が多くなるため、
周りとあまり仲良くなれない傾向があったようです。
また、自分の研究室のそばに日本人研究者がいたことも大きな助けになりました。
アメリカに来たばかりのころは、そばに日本人がいるというだけでかなり安心できたし、
この人のつてで他の日本人とも知り合うことができました。
知り合った日本人の方には車でオハイオ各地に連れて行っていただき、
寮と研究室とウォルマートの往復という単調な生活に陥らずにすみました。

もっと悪い状況になっている可能性はありました。
アーミッシュを調査することができなかったり、できたとしてもほとんど数を集められなかったり、
下手をしたら、「2ヶ月間アメリカで遊んでおわり」ということもあり得ました。
これでさらに、寮に入れなかったり、日本人の知り合いができなかったら、
「遊んでおわり」どころか「何もせずにおわり」ということだって無かったとはいえないでしょう。
今回の留学は「成功」と呼んで良いはずです。

2011年12月9日金曜日

帰国前の現実感

朝、研究室の方に行くと、建物のそばにたくさんの消防車がとまっていて、
芝生のあたりを数人の消防士が行ったり来たりしているのを、
建物の人たちが十人くらい遠巻きに見ていました。
建物の中のとある研究室で、サンプルに火がついたそうです。
中に入ってみると、焦げ臭い臭いはするものの、あまり変わった様子もありません。
消防車の数がおおげさだっただけで、ただの小火だったみたいです。
しかし、私がOARDCを出る手続を担当してくれるはずだった事務の人は、
焦げ臭さに我慢できずに早退してしまい、代わりの人から関連書類を手渡されました。


研究室に行く最後の日にへんなことも起きるんだな、と思いました。

今日は昨日とはうってかわって鮮やかすぎるほどの快晴でした。
真っ青な空を撮っていると現実感がぼやけてきて、
木曜日のアメリカにいるのに、日曜日の日本にいるような気分がしていました。





午前中は、OARDCから出る手続をするため、あちこちの建物を行ったり来たりしていました。
午後からはガイドさんと今後のことについて打ち合わせ。
ガイドさんとこれまでしてきた調査のデータを使って、
私が第1著者、ガイドさんが第2著者、受け入れ先の先生が第3著者の論文を1本、
そしてガイドさんが第1著者、私が第2著者の論文を1本書こうということになりました。
その後は、ガイドさんと夜の7時半ごろまでデータ整理をしていました。
帰り際になって、カバンとパソコンを置いていた自分の部屋に鍵をかけられてしまうという
トラブルがあったものの、まだ残っていた中国人研究者に開けてもらい助かりました。
ガイドさんに寮まで車で送ってもらって、いつか日本に来てください、と言って、
いつか行くよとの返事をもらって、グッドラック、グッドラック、と言い合って別れました。

なんとなく現実感の無い一日でした。
昼食を食べに寮に帰ったとき、台所で寮の管理人が窓からの日射しに照らされながら
だるそうにご飯を食べていたのも、今思い出すとデヴィッド・リンチの映画みたいな光景でした。
日本を発つ前の初秋のころも、やけに天気が良くて、現実感が無かった記憶があります。
海外に出発する直前と、帰国する直前は、こんな風に現実感が無いのが普通なのでしょうか。

立ったまま眠ってしまいそうなくらい疲れていて、それでも明日の朝には出発なので
荷造りをして、でもスーツケースにぜんぜん収まらないので本を捨て、服を捨て、
なんとか蓋を閉じることができて、食器や調味料を寮の人々に配分して、
醤油やみりんや料理酒などの誰も使わない日本の調味料を流しに捨てて、
出発の準備ができたのが夜の11時半ごろで、それからこのブログを書いています。

アメリカに行く直前は「自分が数日後、アメリカにいるなんて信じられない」という気持ちでした。
今は、「自分が数日後、日本にいるなんて信じられない」という気持ちです。

2011年12月8日木曜日

そろそろおわり


留学期間も明日で最後。
午後からは、小雪のちらつくウースターの街をぶらぶら歩いていました。




へんな横断歩道



夜は寮のネパール人と、その友人のベトナム人とで、街の中華料理屋で食事していました。
もうすぐ日本に帰るというので、車で連れていてもらったのです。
寮のインド人やアメリカ人からは、留学終了のお祝いをもらったりして、
寮の人たちには最後までお世話になりっぱなしでした。
アメリカでの思い出は、アーミッシュよりも、ワシントンDCよりも、寮での生活です。

しかし、彼らに「オハイオはどうだった?」と聞かれても、
やっぱりまだどう答えて良いかわかりません。
「平和だった」とか「リスが多かった」とか答えて失笑されてます。
とはいえ、「人が親切だった」というのもオハイオに限ったことじゃない気がするし……。
ちょっと、これまでに撮ったオハイオの写真を並べてみましょうか。

コロンバスキャンパスのスタジアム

OARDC構内

寮の人たちと通ったウォルマート

コロンバスの日本人向け商店

日本食レストランで食べた
caterpillar(イモムシ)という名前の寿司

シノーマイヤー庭園

エリー湖

貨物列車

トルネードの跡

鹿だらけだったイングリッシュ農家

寮の煙突から部屋の中に入ってきたへんな鳥

クリーブランドの科学館

あまり人の来なかったオフィス

馬車

子猫

イチョウ

子牛

びびり犬



にわとり


「自然が豊か」、
ということでしょうか。

オハイオ州は自然が豊か。

あとは、
「広い」

オハイオ州は自然が豊か、そして広い。

私の生まれ故郷の北海道(とくに道央)に近いかもしれません。



調査がすでに終わってた


また更新をさぼっていましたが、一昨日と昨日で調査はすべて終了していました。
(調査でくたくたになった夜にブログを書くのはちょっときついので)

一昨日(月曜日)は、オハイオにしては豪雨の中を調査。
車から玄関までのわずかな距離でもずぶ濡れになり、
そんな日でも犬は容赦なくじゃれついてくるので、服が泥だらけになっていました。
一軒目に訪れたスワーツェントゥルーバーの農家は、
居間で薪ストーブをガンガンに焚いていて、まるで温室のようでした。
薪ストーブというのは温度の調節が難しいのでしょうか?
途中でアーミッシュの鍛冶屋に寄って、馬の足に蹄鉄をはめる作業を見ていました。
馬の後ろ足を抱え込みながら、蹄をがしがし削って、
蹄の部分と蹄鉄を合わせて釘を打ち込み貫通させいました。
蹄は爪だから痛くないはずだけれど、釘を打たれると馬は軽く首を振って嫌がってたみたいです。


昨日(火曜日)は、曇り空だけれど雨はやんでいました。
二軒目に、アーミッシュの家具工場を訪れました。
事務室にはロールトップデスクという、机の上に蓋でカバーをかけられるタイプの机が
置いてありました。
普通の学習机よりも横幅が1.5倍くらい長く、引き出しが両脇と上部にいくつもつけられていて、
デザインも凝っていて、机の裏側にまで正方形の模様が複数彫り込まれていました。
素人なのでよく分かりませんが、材質もかなり良さそうです。
生まれて初めて机を欲しいと思ったけれど、価格は2500ドル。
事務室にいたかなり気さくなアーミッシュは、
「日本にこれを輸出したら売れるかい」と冗談で聞いてきました。
工場の方には、すでに完成して出荷を待つばかりの机や本棚が置いてあって、
注文主が破産したので引き取り手を失った本棚なんてものもありました。
最後に訪れたのは、オハイオで牛乳生産量一位というイングリッシュの酪農家。
非常にマッチョで一見怖いけれど、表情を崩さずに早口で色々話してくれる協力的な人でした。


最終的に集まったアンケートの数は全部で45。
アーミッシュが26で、イングリッシュが19。
2つの町で調査していて、この2つの町で現在活動している農家は150程なので、
3分の1近くの農家のデータを集めたことになります。
後は、この2つの町の特徴を資料からまとめたり、
集めたアンケートのデータに書き込まれた大量の記述データを整理していく作業が必要です。
アンケートの質問項目の中には、受け入れ先の先生が必要としているものもあるので、
それも共有できる形にしなければなりません。


サイロの上に雨よけの屋根(というか家)が。
アメリカでも珍しい光景
手前でうねうねしているのはクリーク(小川)。
奥でうねうねしているのは牛の通ったけもの道。